熟考しない人たち(熟慮せずに結論を導く人)
日本でも話題となった世界的ベストセラー「ワーク・シフト」(リンダ・クラットン著、プレジデント社 2012年)の中に、2025年ロンドンに住む“ジル”という女性のストーリーが描かれている。彼女はテクノロジーの進化とグローバル化の進展により、いつも慌しく仕事に追われている。一つのものごとに集中したり、じっくり観察して深く考えたりする時間がほとんど持てない。24時間世界各地で情報が飛び交い、朝目覚めてメールをチェックすると世界中の仕事仲間や友人、会社の上司、転職先候補企業の担当者からの意見やメッセージが山のように届いている。各メッセージに割ける対応時間はわずか数分、それらの処理中にも電話が入り、電話が終わるとネット会議の準備へと追われる。常態的に細かなタスクに追われ、時間が細切れ化し「熟慮」や「熟考」とは程遠い世界が描かれている。
2025年を待たずとも、熟考を得意としない学習者(熟慮せずに結論を導く人)が昨今研修会場に出現している。今回のコラムでは、「熟慮」「熟考」について考えようと思う。
論点を捉えられないビジネスパーソン
筆者が遭遇した最近の出来事を一つご紹介しよう。それは、産業・組織心理学の知見を用いたワークモチベーションをテーマとした研修での出来事である。研修は「内発的動機付け理論」(Edward L. Deci、1975)を学び、「職務特性理論」(J. Richard Hackman&Greg R. Oldham、1980)を講義で抑えた後、理論の職場応用練習として演習が計画されている。演習内容は、魅力的とは考えにくい仕事を「職務特性理論」を用い、仕事の魅力を高める施策やアイデアを検討するものである。題材として与えられた事例は「ショッピングモールの清掃業務」である。業務はマニュアルに沿って進めなければならず、かなりの重労働であり、モール利用者や同僚らから褒められることは皆無という状況が描かれている。業務従事者のほとんどが初老と呼ばれる世代で、生活のために仕方なく働き、パート勤務は伝えているものの清掃業務であることを恥ずかしくて家族にも隠し続けているといったエピソードなども記述され、魅力乏しく描かれている。検討の肝は、職務特性理論の知見「5つの要素(技能多様性、タスク完結性、タスク重要性、自立性、フィードバック)」に影響を与え魅力度アップにつながる施策やアイデアを洗い出し、ワークモチベーションの向上を期待できる改善計画を提示することである。学習の流れや理論の意図を考えれば、検討すべき事項、議論の方向性、アウトプットイメージは容易に理解できる演習である。
しかし、あるグループが出したアイデアは「パートの時給を上げる」というものであった。多分、グループメンバーらは自分たちの経験から直観的に導き出した施策だったのだろう…、ただ「時給アップ」は、外発的動機付け要因であり、職務の魅力向上とは無関係な対策である。そんなことは、少し考えれば気付けそうなものである。メンバーは、日本を代表するグローバルカンパニーに勤務する社員、中には、そろそろ管理職になろうとする立場の方も複数名いた。発表を聞き、筆者は椅子からずり落ちそうになった。
他の研修でも、これと似たような現象に出会ったことがある。少し考えれば分かるはずのことを、熟考することなく、表層的な出来事や印象的な言葉に引きずられて反応的に結論を導きだす人たちが、近ごろ研修室に頻繁に出現するようになっている。
直観思考を助長する業務環境
複雑な現象に対して、浅い思考で結論を下すのは彼ら自身の能力が大いに関係している。ただ、それ以外にも彼らの業務環境が大きく影響しているのだろう。昨今は、わずか2日間の研修にも参加できないという声を少なからず耳にする。慌ただしく目の前の仕事をこなす日々の連続は、ものごとに集中して取り組む時間を消滅させる。当然ながら熟慮よりも直観による判断機会が多くなり、それが習慣化する。直観は複雑な出来事や案件に対して単純化された大雑把な分析結果を導くと同時に、分かっているという錯覚を抱かせてしまう。分かっている(正確には、分かったつもり状態である)ことへの学習動機は生じない。「分かっていない」という認識が学習への動機を生み、熟慮を促すのである。ものごとに集中して取り組む時間をつくり、じっくりと考え抜く思考力を身につけなければ、直観思考から抜け出すことはできない。高度な専門性や専門技能を身につけるためにも「熟慮」や「熟考」は欠かすことができないのである。
認知心理学の研究知見では、初心者がその道の熟達者になるための努力に費やす時間は、概ね10,000時間であることを証明している。それは「熟達化の10年ルール」と呼ばれる。
特定非営利活動法人 学習分析学会 副理事長 堤宇一