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遠き道

新たなアイデアを定着させ、そのコミュニティの常識を書き換える行為は、相当な覚悟と労力が必要になる。筆者が長年取り組む挑戦は、日本の産業人教育関係者(業界)が持つ“常識”の書き換えである。具体的には「勝ち組の教育施策を無批判に受容する、ありがたや思想」「研修を魔法と捉える、万能薬思想」のような非科学的思想を「教育は、効用と限界をもった問題解決の一方法にしかすぎない」「教育は、事実と合理性を基に解決課題の範囲、実施内容、方法などを決定する科学的手段である」という科学的思想に転換することである。その活動母体としてNPOを立ち上げ、採算に見合わないセミナー「インストラクショナルデザインの基礎」「教育効果測定の基本」などの開催を通じて働きかけている。未だ道遠し状況ではあるが、昨今、「インストラクショナルデザイン」や「教育効果測定」という用語は産業人教育の関係者間で徐々に用いられ、その認知度は高まりつつある。今回のコラムでは、実際にあった事件を取りあげ、人材育成者としての在り方を考えたいと思う。


目次[非表示]

  1. 1.科学的手続きを駆使した研修開発プロジェクト
  2. 2.合理性を打ち砕く顧客の壁


筆者が関わる研修所は大手企業の子会社で、研修開発機能を内部に持たず、研修の概要設計のみを所内で行い、教材制作やインストラクションは教育ベンダーに外注する業務形態をとっている。所内で筆者は、インストラクショナルデザイナーとして研修開発プロジェクトへのコンサルと制作の一部を受けもつ。かかわる範囲は、開発工程だけでなく、リリース後の不具合の是正活動にも及ぶ。プロジェクトに深く関わる意図は、研修開発の質担保だけではない。教育ベンダーの開発スタッフの育成でもあり、これは業界常識の書き換え活動の一つである。スタッフとして開発業務の中でスキルを磨いてはいるものの学習論や教育工学理論をキチンと学んだ開発者や製作者が殆どいないのが我が国の産業人教育業界の実情である。研修開発や学習に関する諸理論を身に付け、その上に業務勘と経験が乗っかれば、業界の底上げとなり、さらには科学に基づく手続きという新常識の普及が叶うと信じている。そのような意図を含むプロジェクトに筆者は、常時複数本関与している。


科学的手続きを駆使した研修開発プロジェクト

事件は、そんな位置づけの開発プロジェクトで発生した。このプロジェクトは、講師に多くを依存する今の研修状況を変えたいという情熱を持つベンダーとの協同で進められた。プロジェクトの扱うテーマは高い専門知識を要する為、専門家を監修者に招きいれた。人手と予算をつぎ込んだ重要度の高い研修開発であった。学習展開のストーリーを何度も書き直し、教材や事例内容が固まる都度に監修者に確認をとり、厳しいフィードバックを何度もいただき、大小の改善を重ね、開発着手から7ヶ月後にリリースにこぎつけた。リリース後は開催の度に、学習者の作品(成果物)を詳細に評価、研修に終始張り付き学習者の反応を観察、受講感想アンケートの実施など多角的にデータを収拾、それらのデータを手掛かりに改善を進めた。具体的にはメンバー全員で改善アイデアを出し、進め方の再検討、学習項目の入替、教育技法の変更、時間配分の見直、フィードバックコメントの精緻化、休憩タイミングの変更などを繰返し、学習の効率性と効果性を高めていった。例えるならば、試合に臨むファイターの如し、データを細かく採り科学的手続きに則り、タフで無駄の無い完全無欠の肉体に磨き上げていく。プロジェクトはリリース後、4回の開催と改善活動を経て3つの学習目標を達成する効率的で効果的な学習を提供する研修に仕上げたのである。学習所要時間は15時間(通学2日間)となった。


合理性を打ち砕く顧客の壁

完成を目前にした同時期に、研修所内で全ての研修の学習時間を1日7時間以内(2日の場合は14時間以内)に抑えるという開発活動とは別の「働き方改革プロジェクト」が動き出した。上限時間を超える研修を提供するベンダーの全てに対し、上限時間の厳守と改善要求の通達が出された。開発プロジェクトを進める教育ベンダーにも連絡が行き、上限時間内に即刻変更するよう指示された。あろうことか、この教育ベンダー(責任者)は二つ返事で次の開催回(半月後に実施)から学習時間を1時間減らして実施する事を約束してしまったのである。無条件承諾の事実を知った筆者は「どのような根拠から1時間減でも学習目標の到達保証が可能と判断したのか」と問いただしたところ、「学習目標の到達を保証できないことは重々承知している。しかし経営の決定事項と言われたから仕方なく、我々も仕事がなくなると困るから・・・」という科学性のかけらもない返事が戻ってきた。


「情けない教育ベンダーだ」と否定することは簡単である。是非、皆さんに考えていただきたい。もし、あなたが教育ベンダーの責任者なら、どちらを選択するだろうか。「科学的手続きを駆使して手に入れた成果を、売り上げ確保のために捨て去るのか」あるいは「学習時間を1時間削減するために、さらに時間と労力を注ぎ込むのか」


学習目標の見直しや参加者の前提条件の引き上げ、教育技法の工夫等で容易ではないが科学的手続きを担保しつつ対処することは可能である。しかし、ここまで磨き上げた研修の学習時間をさらに1時間削るのは、かなりハードである。これ以上研修改善に時間を費やすのは避けたいという気持ちは痛いほどわかるし、「No」と言えば売上確保が難しくなるという苦しい立場も理解できる。


夢見る世界は、未だ遠いことを実感させられた出来事であった。


特定非営利活動法人 学習分析学会 副理事長 堤宇一

堤 宇一氏
堤 宇一氏
所属:NPO法人学習分析学会副理事長 熊本大学大学院社会文化科学研究科教授システム学専攻修了。 「教育効果測定」を2000年より専門テーマとして研究を開始。教育効果測定での米国の第一人者であるJack Phillips博士が主催するROI Network(後にASTDとの事業提携によりASTD ROI Networkに名称改名)にて、アドバイザリーコミッティボードを2期(2001~2004年)務める。(株)豊田自動織機で行なった「SQC問題解決コースの教育効果測定プロジェクト(2002)」は、アジア初の事例としてIn Action ,Implementing Training Scorecards (ASTD)に掲載される。 2005年にNPO法人人材育成マネジメント研究会を設立、2015年5月に学習分析学会へ改組し、現職。 現在、産業人教育の品質向上を目指し「教育効果測定」「インストラクショナルデザイン」「人材育成」に関するコンサルタントとしてコンサルテーション、講演、執筆等幅広く活動。
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