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主体的真理とは何か~社会人としての自己実現への第一歩


目次[非表示]

  1. 1.主体的真理とは、北極星でありコンパスである
  2. 2.「主体的真理」という言葉との出会い
  3. 3.私自身の主体的真理
  4. 4.それは主体的真理だろうか?
  5. 5.主体的真理は、客観的真理ではない
  6. 6.主体的真理は、全てを言語化できるものではない
  7. 7.主体的真理は、与えられるものでも、作りだすものでもない
  8. 8.主体的真理に、大小・善悪・貴賎はない
  9. 9.主体的真理は、固定化したものではない


今回の記事では、主体的真理とは何かについてお話します。以前の記事において、私のそもそもの課題意識として、日々の仕事における主体的真理とのつながりが感じにくいということをお話しました。

そもそも主体的真理とは何か?自分の主体的真理を探求していくにはどうしたらいいか?ということをこれから考えていきたいと思います。


主体的真理とは、北極星でありコンパスである

まず、主体的真理とは何かについて考えていきたいと思います。



主体的真理の定義(落合の考え)
自分にとって生きがいとなる理想、自分固有の生きる目的。あるいは、それらの理想や目的につながる「いまここ」の方向感。


主体的真理の一番大切なところは、「自分にとっての真理」であり、誰にとっても正しい客観的真理とは異なるということです。自分にとって良いこと、楽しいこと、目指したいこと、幸せに思えることは、必ずしも、世の中で言われている「いいこと、目指すべきこと、幸せとされていること」とは同じではないということです。

主体的すなわち自分にとって長い時間軸で、あるいは、ずっと希求していきたい何か。あるいは、それに没頭していること、それとつながっていること、眺めていることが、幸福感・充実感をもたらすようなものが主体的真理です。

そして、主体的真理に生きるということは、自分にとっての希求したい真理・真実・ありたい姿へのつながりを感じながら、生きるということ。万人にとっての真理(客観的真理)ではなく、自分にとって生きがいになる理想、自分固有の生きる目的(主体的真理)が重要だというキルケゴールの思想が源流となります

(Soren Kierkegaard Statue in the Royal Library Garden,Copenhagen, Denmark)


主体的真理をもう少しわかりやすく比喩的に表現するならば、「主体的真理は北極星である」と言えます。自分の人生を船旅として捉えた時に、北極星は船旅として向かっていきたい方向性を指し示します。船旅の道中で自分がいる場所が変わっても、時間が経過しても、北極星はその方向性を示すという意味において、主体的真理の本質をよく表現しています。


別の表現をするならば、「主体的真理はコンパス(方位磁針)である」と言うこともできます。先ほどと同様に、自分の人生を船旅として捉えた時に、コンパスは船旅として向かっていきたい方向性を指し示します。北極星と近いメタファーではありますが、コンパスは今この瞬間でどちらの方向にいくのがいいかという「いまここ」の方向感を示すニュアンスがあります。これも、主体的真理の本質をよく表現しています。

主体性真理

北極星という捉え方とコンパスという捉え方のどちらがしっくりくるかは、性格タイプによって違うように思います。大枠のありたい姿や将来像を想定したいタイプの人は、北極星という捉え方がしっくりきて、その時々の環境や状況に応じて臨機応変に対応したいタイプの人は、コンパスという捉え方がしっくりくるのではないでしょうか。どちらの捉え方でもいいので、自分なりに、しっくりくる方で捉えていただければと思います。


「主体的真理」という言葉との出会い

私自身が、この主体的真理という言葉に出会ったのは、2008年の出来事でした。妻の祖父が他界したときに、義父(妻の父)が妻と、妻の兄弟と自分に伝えた言葉が主体的真理でした。

妻の祖父は、一般的な言われ方としては「自由人」だったのだと思います。乾物屋さんを営んでいましたが、1日の仕事は朝早くの卵の仕入れ。1日のお店番は奥さん(妻の祖母)に任せて、自分の好きな写真(晩年はビデオ撮影)と読売ジャイアンツの応援に没頭していたそうです。

息子(妻の父)が、就職したタイミングで乾物屋を閉め、そこからは写真・ビデオ撮りと読売ジャイアンツに生きる日々。妻と私の結婚式も、ビデオ撮影・編集をしていただき、7-8巻にわたるVHS作品として今も我が家にあります。

2008年に妻の祖父が他界したとき、義父が妻と、妻の兄弟と私に話した内容を今でも昨日のことのように覚えています。


「おじいさんは、ビデオ撮影とジャイアンツの応援をすることが生きがいで、毎日毎日自分が本当に好きなことに生きた人だった。きみたちも、お爺さんのように主体的真理に生きる人生を歩みなさい」


学者の義父らしく、主体的真理の原典として、キルケゴールの書籍を引用した紙も渡してくれました。そこから、私は主体的真理という言葉を使い始めました。アルー株式会社のミッションを語る場面、私自身の夢を語る場面において、この主体的真理という言葉を用いるようになり、今となっては私自身のコアな部分を表現・体現する言葉になっています。


私自身の主体的真理

私自身は、どのような主体的真理に生きたいと思っているのかについてお話をしたいと思います。ただし、前提として、主体的真理は、内なるエネルギーの塊のようなものなので、その全てを言語化できるものではないと考えています。ですから、言葉で表現をしようとした瞬間に、その一側面を捉えているに過ぎないものになってしまうという限界がありますが、なるべく純度高く言葉にしていきたいと思います。

私自身の主体的真理をなるべくそのまま純度高く表現すると、「本質追求による大いなるものとの一致感」となります。ここに私のエネルギーの源泉があります。小学生の頃から、大学院時代まで(そして、今も)好きな物理学は、世の中の事象の理(ことわり)という本質追求という意味において、私にとってエネルギーが湧くものでした。

「大いなるものとの一致感」というのは、世の中全体に適応されるような大きなもの(例:物理法則、社会的インフラなど)に触れていることができる、眺めることができる、発見や実現に寄与することができるというイメージです。

この「本質追求による大いなるものとの一致感」ということを具現化するフィールドが、小学生から大学院までは物理学であったのに対して、起業してから今に至るまでは、教育をフィールドとしているということになります。


現時点の私自身の主体的真理をより具体的に表現すると、「主体的真理に生きる人がたくさんいる社会に貢献すること」となります。将来像すなわちヴィジョンとして、この内容をもう少し大げさに表現すると「SDG4(全ての人に質の高い教育を)を実現する世界的教育インフラを構築する」となります。



【私自身の主体的真理(を最大限純度高く表現したもの)】
本質追求による大いなるものとの一致感




【上記の主体的真理につながりながら、ヴィジョン的に言語化したもの】
  • 主体的真理に生きる人がたくさんいる社会に貢献すること
  • (もう少し大げさに表現すると)SDG4(全ての人に質の高い教育を)を実現する世界的教育インフラを構築する


どのような抽象度・具体度合で主体的真理を表現するか、言葉にしておくかについては、人それぞれ心地よいレベルで十分と思います。主体的真理とのつながりが感じられることが一番のポイントですから、それが感じられるレベルで意識化・言語化しておくのが良いでしょう。

若葉


それは主体的真理だろうか?

自分にとってありたい姿や成し遂げたいこと、やり続けたいこと、やっていて楽しいことなどはあるけれども、これは主体的真理と言えるのだろうか?

このような疑問を持たれる方もいるのではないでしょうか。主体的真理は、あくまでも自分にとって心の底からそのように思えるものであれば良いのですが、自分が本当にそう感じているのか、必ずしも確信を持てる状態ではないという人も多くいます


前提として、主体的真理が常に明確でなければいけないというものではないということを確認させてください。主体的真理は、意識的につながりを感じられると充実感や幸福感が高まるものではありますが、それが明確に言葉にできないからといって、充実感が感じられないとか、幸福感が下がるというものではありません。

むしろ、すぐに言葉にできるようなものではなく、自分なりに試行錯誤したり、経験を積みながら、探求していって、段々と明らかになってくるようなものです。

このような前提のもとで、自分が今感じていること(「それ」と呼びます)が、主体的真理に近いものかどうかを確かめるいくつかの問いがあります。



  • 「それ」に繋がりを持てているとき、自分の内なるエネルギーが湧いてくるか?(エネルギーの湧出)
  • 周囲に反対する人がいても、「それ」に繋がっていたいか?(主体性)
  • 「それ」は、これまでも(形を変えながらも)繰り返し起こっていたことか?また、これからも繰り返し起こってもいいと思えるものか?(時間軸の長さ)
  • 自分以外の誰かが、「それ」に繋がっていたり、「それ」を実現したりしたとしても、「それ」を眺めているだけで良しと思えるか?(エゴとの切り離し)


これらの問いに対して、「YES」と心の底から思えるものであればあるほど、「それ」は主体的真理に近いと言えます。一方で、「YES」と言い切れないものがあるからといって、主体的真理ではないと決めつけるのではなく、そこにはさらなる探求のポイントがあると捉えると良いでしょう。

主体的真理は、ある瞬間に全てが言語化されるというものではありません。自分のエネルギーが湧出する源について、少しずつ探求を深めていくというイメージに近いです。ですから、上記の問いに対して、全てが「YES」でなかったとしても、部分的にでも「YES」があるならば、それは主体的真理を探求する旅の入り口に立っていると言えます。

地図


主体的真理は、客観的真理ではない

まずは、復習を兼ねて、主体的真理の定義について確認をさせてください。




主体的真理の定義(落合の考え)

自分にとって生きがいとなる理想、自分固有の生きる目的。あるいは、それらの理想や目的につながる「いまここ」の方向感。



主体的真理の一番大切なところは、「自分にとっての真理」であり、誰にとっても正しい客観的真理とは異なるということです。自分にとって良いこと、楽しいこと、目指したいこと、幸せに思えることは、必ずしも、世の中で言われている「いいこと、目指すべきこと、幸せとされていること」とは同じではないということです。

逆に、客観的真理とは違うものでなければいけないかと言えば、そういうことでもありません。無理やり、独自性や個性を探し出したり、創り出そうとするのも、逆に「世の中の基準やいいとされていること」に囚われてしまっているとも言えるでしょう

あくまでも、自然と直感的に「自分にとっての真理」と思えるものとして捉えておくと良いと思います。

主体的真理は、全てを言語化できるものではない

主体的真理は、自分固有の生きる目的ですから、当然ながらひとり一人違います。100人いれば、100通りの主体的真理があります。

一方で、言葉というのは、人同士が相互に共通のイメージをもつための符号と言えます。人類がこれまで経験してきたことの中で、共通のイメージをもつことが有益であるものが言葉として共有されていると考えることができます。


そう考えると、ひとり一人違う主体的真理を、人類のこれまでの共通の符号である言葉で説明できるとは限らないことがわかります。例えば、地球上にない新しい「X」というものを想像したとしましょう。このXは、どのように言語化することができるでしょうか?

Xを表す直接的な言葉はありませんので、Xに近しいイメージをもつ言葉による比喩表現で説明せざるを得ません。「Xは、Aに近いけど、Bというニュアンスも含まれているもの」みたいな表現にならざるを得ないでしょう。

このように、主体的真理は、その全てを言語化できるわけではありません。主体的真理が明らかになっていないことや、言語化できていないことについて思い悩む必要はありません。そもそも言語化しにくいものなのです。


一方で、主体的真理は、その全てが言語化できるわけではないにしても、その一部を言語化・意識化して、日々の仕事や活動に紐づけていくことは、その人の充実感や幸福感を高めていくことにつながります。言語化・意識化することそのものというよりは、主体的真理とのつながりを感覚的・体感的に感じながら日々を過ごすと、充実感や幸福感が高まるというイメージに近いです。

ヴィジョンや夢やありたい姿は、主体的真理の一つの側面が、その時々に結晶化したものと言えます。サイコロのような立方体を思い浮かべていただいて、主体的真理がその立方体だとすれば、ヴィジョンや夢やありたい姿は、その1つの面を表しているというイメージです。あるいは、光をその立方体にあてた時にできる影として捉えてもよいでしょう。

画像

少し回りくどい表現になってしまいましたが、主体的真理は、全てを言語化できるものではないが、その一側面であってもヴィジョンや夢やありたい姿などの形で言語化・意識化して、日々の仕事や活動と紐づけていくことは、充実感や幸福感を高めていくことにつながるということが言えます。



主体的真理は、与えられるものでも、作りだすものでもない

主体的真理は、そこにあるものであり、与えられるものでも、作り出すものでもありません。見つけるというのはありえますが、ないものを見つけるという意味ではなく、あるものに気づくという意味になります

主体的真理が現時点で言葉になっていなかったとしても、それは主体的真理がないことを意味するのではなく、言語化されていないということのみを意味します。また、主体的真理が形になっていなかったとしても、それは主体的真理がないのではなく、まだ形になっていないだけです。


自分の周りに、きれいな花が咲く植物の種子がたくさん飛んでいる状況を思い浮かべてください。このメタファーにおいて、きれいな花が主体的真理を表します。きれいな花そのものは、まだ咲いていないけれども、その種子はそこにあるし、土壌や水などの環境が整えば、いつでも咲く準備ができているものになります。

画像

ですから、主体的真理を無理やりに探し出そうとする必要はありません。すでに、自分の身の回りにあるはずなので、仮にそれが見えにくかったとしても、自然と姿を現すまで待つというくらいの気楽さで構えておくのが良いと思います

主体的真理に、大小・善悪・貴賎はない

主体的真理に大小・良悪・貴賎はありません。あるのは、本来の自己とのつながりがあるかどうかだけです。エネルギーが自然と湧いてくるかどうか、誰が何といっても自分はこうしたいと思える何かかどうかということのみが大切です。その内容は、世の中のためというものであってもよいし、自分のためであってもよい。人類全体の幸福をテーマとしてもよいし、ジャイアンツの応援をテーマにしてもよい。

ですから、主体的真理の内容について、人と比較をしたり、何らかの基準と比較をしたりすることに意味はありません。大小もなければ、善悪もありませんし、貴賎もありません。

りんごとみかんのどちらが好きですか?という問いはあり得ても、りんごとみかんのどちらが上位ですか?という問いは意味をもちませんね。「りんご」はどこまでいっても「りんご」であり、「みかん」はどこまでいっても「みかん」です。主体的真理の違いというのは、そもそもの種の違いと一緒で、比較をすることに意味がありません。

リンゴとミカン



比較することに意味がないということは、自分の主体的真理や、他者の主体的真理を否定したり、否定されたりするものではないということです。自分が主体的真理につながっていると思っていることを他者から否定されたとしても気にする必要はありません。そして、他者の主体的真理は、なるべくそれをそのままに理解して、受容してあげられることが人としての器と言えるでしょう。

主体的真理は、固定化したものではない

主体的真理は、形となって固定化したようなものではありません。主体的真理とつながりながら活動した結果として、何かを成し遂げたり、何かが形になったりすることはあるでしょう。

芸術家が、自分の主体的真理につながりながら創作活動を行い、作品ができたというような場面がこれに該当します。しかし、この作品は、主体的真理につながることで生まれた作品ということはできても、この作品自体が主体的真理であるということではありません。


主体的真理は、エネルギー次元のものであり、物質次元のものではないのです。


エネルギーは(例えば、電気エネルギーのように)、パソコンを動かすこともできれば、冷暖房器具を動かすこともできますし、電気自動車を動かすこともできます。エネルギーは変幻自在です。一方で、パソコンはすぐには冷暖房器具に変身できないように、物質はたやすく形を変えることはできません。

先ほどの芸術家の例で言えば、芸術家にとっての主体的真理は、芸術家の中にある「表現したい何か」と「表現したいという情熱」です。そして、それはエネルギー次元のものであり、そのエネルギーをもとに、一つひとつの作品という物質次元のものを生み出します。


主体的真理は、エネルギー次元のものであり、物質次元では変幻自在の形をとることができます。


この感覚がつかめると、主体的真理に生きる柔軟性が飛躍的に高まります。エネルギー次元にある主体的真理につながりながらも、物質次元での表現・体現方法は変幻自在なので、その時々の環境に応じて柔軟に対応することができるのです。

これが、「主体的真理の社会実装」という、主体的真理に生きることと、周囲を調和して生きるという矛盾・葛藤を統合する鍵となります。

組織と個人の関係性が変わってきており、これからは「個人と組織の対等な関係、相互の主体的真理やありたい姿に基づいて、協働することに合意する関係」という時代になります。

個人と組織の関係が変わっていく



この「相互の主体的真理に基づいて協働する」ということを実現する鍵は、主体的真理はエネルギー次元のものなので、物質次元でどのように体現するかはお互いに柔軟性が多分にあって、重ね合わせの仕方はいろいろなやり方を考えることができる、という感覚を持っているかどうかにあります。

組織と個人の関係についてお話をしましたが、個人同士の協働関係についても同じことが言えます。主体的真理の体現について柔軟性のある感覚をもっておくと、相互の主体的真理の重ね合わせ(ヴィジョン、目的、目標など)が容易になり、本質的な協働関係が生まれやすくなります。

落合文四郎
落合文四郎
アルー株式会社代表取締役社長

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