
自己信頼ってなに?~自己信用・自己肯定感との違いを説明できますか
目次[非表示]
これまで、自己信頼とは何かについてお話をしてきましたが、今回の記事では、自己信頼とは何ではないのか、についてお話しすることによって、自己信頼についてさらに深くお伝えしたいと思います。
「信頼」と「信用」の違い
信頼と信用という言葉は、似たような意味ですが、違うニュアンスを含みます。辞書を調べると次のような解説があります。
信用
|
信頼:信じて頼ること。(大辞林)
|
確かに、似たような意味で捉えることもできますが、信用は「間違いないとして受け入れる」というニュアンスが強いように感じます。そして、私たちが実際に使うときにも、微妙なニュアンスの違いを感じます。
「信頼関係」とは言いますが、「信用関係」とは言いません。
「信用取引」はあっても、「信頼取引」はありません。
要するに、「信頼」の方が無条件で信じるというニュアンスが強くなります。ここからは私の考えなのですが、「自己信頼」と「自己信用」を次のように定義しています。
自己信頼の定義(落合の考え)
自己信用の定義(落合の考え)
|
「無条件で信じる」とは、例えば親が自分の子どもを信頼するときのように、客観的な根拠のない信頼です。根拠なく「自分は自分でいいんだ」と存在を認めるような考え方です。
これに対して、条件付きの信用とは、何らかの根拠に基づいた判断が伴います。学歴・職歴はその典型ですし、保有資産や社会的なステータスなども同じです。また、「過去に成功した」「こんなに努力してきた」といった過去の経験に基づく判断も、条件付きの信用です。
以前の記事で、社員のNさんから次のような質問をされたエピソードをご紹介しました。その内容を改めてご紹介します。
お客様との打ち合わせの後、一緒に案件を手がけていた社員のNさんと食事をしていたときに、Nさんが聞いてきました。 「社長は、自分を信頼していますか?」 お客様との打ち合わせの中で、職場における人間関係や、相互信頼ということをテーマに議論をしていたので、信頼というテーマがでてくることは自然な流れでしたが、自分自身に問いが向けられたことに少し驚きながら答えます。 「そうだね。信頼しているよ。やろうと思えばできるという自信を漠然と思っているよ」 そのときに、Nさんがこのように言ってきたのです。 「もし、落合文四郎が、アルーの社長でなくて、BCGの出身でもなくて、大学院卒という学歴もないとしても、同じことが言えますか?」 当時の私の答えは「No」でした。 |
このやりとりを「自己信頼」と「自己信用」という言葉を使い分けて解説をすると、Nさんの質問は、「自己信頼をしているか」ということを聞いています。それに対して、私は「過去の経験に基づいて、やろうと思えばできるという自信があるから、自己信用はしている」と答えているわけです。
Nさんは、自己信用と自己信頼は違うということを見抜いていて、「いろいろな肩書きや実績がなかったとしても、自己信頼できますか?」と聞いています。
「自己信用」ばかり積み重なると、かえって自分を見失う
自己信用、すなわち条件付きで自分を信じることは、決して悪いことではありません。むしろ、それは何らかの根拠があって、自分・他者・社会から認められているということですから、望ましい面もあります。
ただ、 「自己信頼」ができていない状態で「自己信用」だけを追い求めることはお薦めできません。
|
こうした状態は、自分を信じるための何らかの根拠を追い求めている典型例です。私自身、起業してからしばらくの間、起業した理由を尋ねられた時に「自分の存在証明。すなわち、自分がいたときの世界と、自分がいなかったときの世界の差分を創りたい」ということを惜しげも無く披露していました。汗。
今から考えると、自己信用を追い求めていたと言えます。要するに、「自己信頼」がないと、自分の行動や成果、あるいは他人の基準によって自分自身の存在意義を証明するモードに入ってしまうのです。
|
こういった「~ねばならぬ」モードに入ってしまいます。「~ねばならぬ」モードになると、主体的真理、つまり自分の本当の心の声を見失ってしまいます。
私自身も、社長としての責任を強く感じすぎるあまり、周囲との一体感が薄れ、組織マネジメントがうまくいかない時期がありました。「社長たるもの」という責任感が悪循環を起こし、会社を通して仲間たちと本当にやりたいことを見失ってしまったのです。
そんな私も、コーチングセッションなどの様々なきっかけを通じて、ありのままの自分を客観的に捉えられるようになっていきました。すると、社長という立場は関係なく「自分は自分」と思う気持ちが生まれました。
これは、コーチングセッションの内容をもとに、内省したことをメモしたものです。(字の汚さはご容赦を)
字が汚くて読めないかもしれませんので、ポイントを抽出すると以下のように書いてあります。
|
少しわかりにくいかもしれないので、解説を加えます。ここでいうBoyというのは、映画俳優と映画監督のメタファーで言えば、映画俳優の立場と同じです。God Fatherというのは、映画監督の立場になります。
当時の自分は、映画俳優であるBoyとしての直感と、それを見守る映画監督であるGod Fatherとしての視点を併せ持つことによって、どちらの視点も大切にすることに言及しています。
逆に言えば、この2つの視点を切り分けずに、混同していたために、次のような苦しさを感じていました。
|
それが、BoyとGod Fatherという2つの視点を切り分けて、両方を大切にすることによって、次のような感覚に変わっていったのです。
|
当時は、3+1意識モデルを明示的に意識していませんでしたが、メタ意識から自分のありのままを捉えるということと本質的には同じであることがご理解いただけると思います。
このように思えると、気持ちとして非常にラクです。ありのままの自分を認めながら、社長という立場をうまく活用して、本当にやりたいことにのびのびと取り組める場面が増えるようになりました。
自己信頼は、自己効力感とは異なる
自己信頼と似て非なるものとして、自己効力感(Self-Efficacy)があります。自己効力感は、カナダ人心理学者アルバート・バンデューラが提唱した概念で次のように定義されています。
自己効力感(Self-Efficacy)の定義:(下記の文献を元に落合が意訳)
人生に影響を与える出来事について、望ましいレベルの成果や達成を生み出すために、自分の力を発揮できるという信念
(Bandura, A. (1977,1994) Self-efficacy.)
自己効力感とは、平たく言えば、ある問題や課題を解決できるという信念です。ポイントとしては、ある状況において成し遂げたいことを想定していることです。
私の例でいえば、2020年のパンデミックにおいて、当初は先行きが見えず、自分ではコントロールができないことが多いように思える瞬間もあり自己効力感が低い状態でしたが、しばらくして、自分の捉え方を変えたり、いくつかの方策を打ち立てて実行した結果、うまくいくことも多くなるにつれて、自己効力感は増していきました。
この例でわかるように、自己効力感は想定する状況が変わったり、同じ状況であっても自分の状態が変わることによって、高くなったり、低くなったりします。
状況によって、自己効力感が変わるということは、自己効力感は条件付きの認知だということです。ここが自己信頼との違いの1つです。
また、自己効力感は、「事をうまく成し遂げることができるかどうか」という観点で判断をしています。一方で、自己信頼というのは、良いとか悪いとかではなく、ありのままの自分をそのまま捉えるということであり、判断という要素がありません。
自己信頼は、自己肯定感とも異なる
もう一つ、自己信頼と似て非なる概念として、自己肯定感があります。これは心理学において昔から議論されている概念で、次のように定義されます。
自己肯定感(Self-Esteem)の定義:(下記の文献を元に落合が意訳)
自分自身に対して抱いている総合的な価値判断
(Coopersmith, S. (1967). The antecedents of self-esteem.)
※自己肯定感は自尊感情と呼ばれることもある
自己肯定感の定義は様々であり、定まっているものがあるわけではありませんが、古典的な定義の1つが上記のものです。自己効力感は、ある状況において実現したいことを想定していますが、自己肯定感はそのように想定している状況ではなく、いろいろな状況や側面を総合的に判断して、自分を肯定的に捉えることができることを指します。
自己効力感と比べて、具体的な状況を想定するものではないという意味において、条件付きというよりは無条件に近い感じがしますが、それでも、良し悪しという価値判断している点では、自己効力感と似ており、自己信頼とは異なります。
自己信頼は、自己有用感とも異なる
最近、日本の学校教育では自己有用感という言葉も使われているようです。文部科学省国立教育政策研究所が、自己肯定感とは異なる概念として、自己有用感という概念を打ち出しています。
自己有用感(Self-Esteem in social context)の定義:(英語は落合が意訳)
自分と他者(集団や社会)との関係を自他共に肯定的に受け入れられることで生まれる、自己に対する肯定的な評価
(文部科学省国立教育政策研究所)
自己に対する肯定的な評価であることは自己効力感や自己肯定感と同じですが、自分と他者との関係性を起点としているところが、それらの2つの概念とは異なる点です。
自己有用感というのは、個性性・集団性という基軸において、集団性の性向が強い日本社会において、特徴的な概念だと思います。みなさんも感じられている通り、何らかの基準で良し悪しを判断しているものという意味では、自己効力感や自己肯定感と同じであり、自己信頼とは異なります。
自己信頼は、自己受容と近い
自己XX感というのは、他にもありますが、その全てが自己信頼とは異なるのかと言えば、そうではなく、自己信頼に近い概念もあります。それは、自己受容という概念です。
自己受容は、ポジティブ心理学において盛んに議論されている内容であり、次のように定義されています。
自己受容(Self-Acceptance)の定義:
個人が自分に関することをポジティブにもネガティブにもすべて受け入れること
(Morgado, F. F. da R., Campana, A. N. N. B., & Tavares, M. da C. G. C. F. (2014). Development and Validation of the Self-Acceptance Scale for Persons with Early Blindness)
自己受容の特徴は、ポジティブなこともネガティブなことも受け入れるということにあります。受け入れるということに良し悪しの判断はありません。あるがままの自分を受け入れるという感覚と同じです。
受容という言葉の反対は、拒否です。自己受容というのは、ポジティブなことであれ、ネガティブなことであれ、拒否したり、無視したりするのではなく、受け入れるということを指します。
そして、自己受容は、無条件であるという点において、自己信頼と極めて近い概念だと私は思っています。違いがあるとすれば、その時間軸であり、自己受容の方が時間軸が短めであり、自己信頼の方が時間軸が長い印象を持っています。
これまでの記事でご紹介してきた自己一致(=メタ意識から、直感、思考、身体意識をありのままに捉えること)も、自己受容や自己信頼と近い概念であり、自己一致はその中でも、最も「いまここ」の一瞬一瞬の感覚に近いという印象を持っています。
ここまでご紹介してきた、自己XX感という自己信頼に似た概念を整理したものが上図となります。自己効力感、自己肯定感、自己有用感は、それぞれの判断基準がコト起点か、ジブン起点か、ヒト起点かという違いはあるものの、全て条件付きで自分を信じるということは共通しており、その意味において自己信用にあたるものと私は捉えています。
また、先ほど述べたように、自己一致、自己受容、自己信頼は、無条件でありのままの自分を捉えるということが共通しており、その違いは時間軸の長さにあると私は捉えています。
ここで1点補足しておくと、自己信用は、何らかの基準に沿って判断するという意味において、思考意識中心に自己を捉えています。一方で、自己信頼は、自己一致がそうであったようにメタ意識中心に自己を捉えています。
今回の記事では、いろいろな概念を新しく提示しながら、自己信頼との違いをお話ししてきました。情報量が多く、難解な部分もあったかもしれませんが、自己信頼という概念をかなり立体的に、的確に捉えることができるようになったのではないでしょうか。