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主体的真理に生きることのススメ~社会人にもたらす効果


目次[非表示]

  1. 1.主体的真理に生きるとエネルギーが内側から湧く
  2. 2.主体的真理に生きると縁がつながる
    1. 2.1.「野心」に近い主体的真理と「志」に近い主体的真理
    2. 2.2.主体的真理を自己開示しよう
  3. 3.中間まとめ
  4. 4.主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすい
    1. 4.1.常識に囚われなくなる
    2. 4.2.認知する情報の量に差が生じる
    3. 4.3.人から異質なアイディアを得られる
  5. 5.主体的真理に生きると、フロー状態を経験しやすい


今回の記事では、主体的真理に生きる状態とは具体的にどのようなものか、どのようなことが起こりえるのかについてお話ししたいと思います。主体的真理に生きるといっても、「主体的真理に生きる状態」と「そうではない状態」が2つあって、白黒が明確に分かれているというものではありません。

「主体的真理に生きる」という方向に近づくという感覚があるだけです。近づけば近づくほど、面白いこと、楽しいこと、充実感を感じられることが増えていくというイメージです。車でドライブしている比喩でいえば、今どこを走っているかということは関係ありません。今この瞬間に心地よく走れているという感覚があるかがポイントになります。


主体的真理に生きるとエネルギーが内側から湧く

主体的真理に生きると、エネルギーが内側から湧く感覚をもつことができます。自分が好きなことをやっているときは自然とエネルギーがでてくる感じがしますし、時には食事をすることも忘れて没頭する経験をもつ人もいるでしょう。


一方で、自分が好きではないことだったり、やるべきことではあるけれども自分の思いが重なっていなかったりすると、やり続けることに多大な労力が必要となります。


内なるエネルギーは、直感・思考・感情・五感の一致(不整合がない状態)から生まれます。主体的真理は直感意識に属しており、主体的真理につながることで、内なるエネルギーにアクセスすることができます。主体的真理からくるエネルギーを外部に発揮できるレベルでうまく引き出せるかどうかが、直感・思考・感情・五感が一致しているかどうかに依存します。


例えば、直感と思考にギャップがある場合。直感的にいいと思っていたり、好きと思っていることでも、思考的に「周りからどう思われるかが気になる」とか「世の中の常識とは違う」とか「評価にはつながらない」などと考えてブレーキをしてしまうと、内なるエネルギーを引き出すことはできません。

直感と感情の一致も大切です。直感的にいいと思っていることがあっても、それを実現することのリスクを肌身で感じていたり、周囲との調和が崩れてしまうことに対する嫌悪感があったりすると、内なるエネルギーを引き出すことはできなくなります。

内なるエネルギー

逆に、直感でいいと感じていることが、思考レベルで妨げられることがなく、快感情を伴っている(あるいは、少なくとも不快感情を持ち続けるということがない)ことによって、主体的真理につながることによるエネルギーが、内側に留まっているだけではなく、外側に引き出すことができます。


どうすれば、直感・思考・感情・五感を一致させることができるのかについては、別の記事にて詳しくお話ししたいと思いますが、ポイントとしては、①直感・思考・感情・五感の状態をメタ認知すること、②不一致がある場合に、思考意識にある価値観(特にアイデンティティやビリーフ)を調整すること、があります。


主体的真理に生きると縁がつながる

意識の意識化をテーマとした研究を始めてから、これまでになかった縁を頂く機会が増えました。特に、このような形で自分の思いをより積極的に発信するようになってから、その傾向はさらに加速しています。

それらの縁の経緯には、「知り合いのXXさんが紹介してくれたから」とか「当社の研修を受講したことがあったから」など個別の事情がありますが、その背景には、「自分が、自分の主体的真理に生きることに、より自覚的になることによって、そのエネルギーを周囲の方々が感じ取ってくれている」ということがあるように思っています。

人とのつながり・ネットワークには、2種類あります。

一つは、人ベースの人的ネットワークであり、自分と相手の相互信頼・相互信用を土台としたつながりです。学校の同級生や、部活の仲間、会社の同僚などが当てはまります。人ベースのネットワークは、主体的真理の内容は何であれ、主体的真理に生きることを応援してくれる人たちです。


もう一つは、共感ベースの人的ネットワークです。主体的真理の内容に共感・共鳴して、応援してくれる人たちです。有志で集まっている組織の仲間や、ファンクラブ、自然発生的なコミュニティなどが当てはまります。共感ベースのネットワークは、主体的真理の内容について、それが具現化することを応援してくれる人達です。

人的ネットワーク

主体的真理に生きることによって、縁がつながりやすくなるのは、この2種類の人的ネットワークのうち、共感ベースのネットワークの方が顕著です。

人ベースの人的ネットワークは、自分が主体的真理に生きていても、あるいは、生きていなくても、応援してくれる人達です。そういう意味で、とても貴重な存在であることは言うまでもありません。


一方で、共感ベースの人的ネットワークは、主体的真理に生きている感覚が強まれば強まるほど、その人的ネットワークは拡大し、強まっていきます。主体的真理の内容とそれが発するエネルギーに共感・共振するからです。

したがって、主体的真理に生きることによって、人ベースの人的ネットワークだけではなく、共感ベースの人的ネットワークが広がっていき、より多くの縁がつながり、その縁がまた新しい縁をもたらしてくれるということが起こります。


「野心」に近い主体的真理と「志」に近い主体的真理

この共感ベースの人的ネットワークが広がり方は、主体的真理の内容によって違いがあります。以前の記事でもお話しましたが、主体的真理の内容として野心に近いものと、志に近いものがあります。



野心:自分だけの中に閉じた夢であり、自分のためだけの夢

 志:自分だけではなく周囲の人のためにもなる夢


主体的真理の内容が野心というよりも志に近いものであればあるほど、共感ベースの人的ネットワークは広まりやすくなります。これは、自分だったら、どちらの方が共感しやすいか、手伝いたい、支援したいと思うかを考えれば一目瞭然です。

ただし、これは主体的真理としての善し悪しという話ではありません。主体的真理に善悪はありません。ただ、縁のつながりやすさという意味においては、志に近い主体的真理の方がその状態をもたらしやすいというだけの話です。

野心的な主体的真理であっても、それを持てているだけで素晴らしいことです。主体的真理とつながりにくい「あるべき姿」を掲げている状態よりも、比較にならないくらい良い状態と思います。

野心的な主体的真理であるからといって、それを無視したり、捨てたりしようとしないでください。野心的な主体的真理でよいのです。別の記事でお話しますが、最初は野心的な主体的真理であったものが、志的な主体的真理に発展することがあります。そのうち「志の要素も加わってくるかもね」くらいの気持ちで、今の野心的な主体的真理を大切にするといいと思います。

登山


主体的真理を自己開示しよう

もう一つ、共感ベースの人的ネットワークを広げやすくする要素があります。それは、積極的な自己開示です。積極的・意識的に、主体的真理に生きている内容やエネルギーを発信することによって、より多くの人の共感を得ることができます。

自己開示を意識的にしなかったとしても、主体的真理に生きることによる内なるエネルギーによって、周囲の人々に影響を与えます。私自身も、最近になるまで、自己開示に対しては消極的でした。「わかってくれる人にだけ、わかってもらえればよい」という姿勢が、自分にはありました。

私自身は、このような自己完結的な価値観に、疑問を持ち始めたのが、このブログを始めた契機でもあります。自分が良いと思っていることを発信して、共感と共鳴の輪を少しずつ広げていって、初めて見えてくる世界を見てみたいと思ったのです。

ですから、自己開示については、どこまで積極的にやるかについては、自分が無理しないでできる範囲でやればいいと思います。そのときに、自己開示を進めることによって共感ベースの人的ネットワークが広がっていくことを実感できれば、より積極的に自己開示したいと思えるかもしれません。

扉


中間まとめ

主体的真理に生きることと縁がつながるということについて、簡単な図式でまとめておきます。野心よりも志であること、積極的に自己開示することは、共感ベースの人的ネットワークが広がりやすくなる要素ではありますが、絶対不可欠と言う話ではありません。主体的真理につながりながら生きていれば、段々と縁がつながっていきます。


主体的真理につながりながら生きている

↓←(+)主体的真理は、野心的というよりも志(こころざし)的である

↓←(+)主体的真理を自己開示する・発信する

共感ベースの人的ネットワークが広がる

縁がつながる


主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすい

主体的真理に生きると、創造性を発揮しやすくなります。これには、いくつかの要因があります。


常識に囚われなくなる

1つ目の要因は、常識や既存の枠組みに囚われなくなるということです。主体的真理に生きるということは、(客観的な真理とは限らない)自分にとっての真理を大切にするということですから、世の中の常識や、周囲からの見え方などの要素を必要以上に気にしなくても済むようになります。

常識や固定観念にとらわれると、創造性を発揮しにくくなるというのは、みなさまも実感を持たれていることでしょう。「こうあるべき」「これが普通である」という考えが強すぎると、それとは異なる新規性のあるアイディアや捉え方を否定してしまったり、そもそも情報の認知ができなくなってしまいます。

アインシュタイン

(Albert Einstein statue details on display inside of Museum of Cosmonautics at Moscow in Russia.)


「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

(アルバート・アインシュタイン)


アインシュタインの相対性理論は、それまでの常識となっていたニュートン力学において前提としている「時空間の絶対性」に疑問を投げかけたことで生まれてきた理論と言えます。アインシュタインは、自分の主体的真理に生き、世の中の常識にとらわれなかったことで、大いなる創造性を発揮することができたと言えるでしょう。


認知する情報の量に差が生じる

2つ目の要因は、認知する情報の量です。主体的真理に生きると、外界からの情報の収集について、アンテナがたちます。同じものを見ていても、同じことを聞いていても、アンテナが立っているかどうかによって、認知される情報の量が違います。

いつも歩いている道路を歩くときに、「丸いもの」とか「赤いもの」などと意識しながら歩いてみてください。すると、「こんな木や花がここにあったんだ」とか「同じ街灯が並んでいると思っていたら、よくみたら一つひとつデザインが違った」など、新しい気づきを得ることができると思います。

これと同じで、主体的真理というテーマをもっていると、そのテーマに関する情報が自然と入ってくるようになります。ニュースを見ていても、同僚や友人と他愛のない話をしていても、街中の様子を見ていても、主体的真理に近しいテーマの情報はアンテナに引っかかって入ってきます。

私が最近感じた例を一つご紹介します。それは、「センス」についてです。ある勉強会に参加したときに、センスという言葉がでてきて「センスとはスキルではないものである」という話をされていました。そして、「センスは、スキルを習得することでは身につかないものである」という話もありました。(これは、全くその通りであると思います)

これとは、全く別の場である、地元の少年野球チームのコーチ陣とのメールのやりとりで、「野球のセンス(打撃センスや、投球センス)を教えるのは難しい」という話をしていました。(これも全くその通り!)

これは不思議な感覚なのですが、同じようなタイミングで、異なるルートから、似たような情報が入ってくることがあります。一つひとつは、表面上違うことが多いのですが、その本質は似ています。


「センス」の例でいえば、「センスというものは、スキルとは違い、教えることが難しいものである」ということは、異なる二つの場面であっても共通している内容です。

そのときに、私に問いが生まれます。「センスとは何か?センスは本当に教えることが難しいものなのだろうか?」と。それは、私にとって「本質探求」が主体的真理のエネルギーの1つであり、また、教育ということをライフワークとしてやっているので、「センスの獲得」に関する情報がアンテナに引っかかってきて、問いが生まれたのだと思います。

このような問いを持ちながら仕事をしている中で、今度は社内の部門長との目標設定面談がやってきます。目標設定をする面談の対話の中で、「この半期は、いかに全体感を掴みながら、当社と部門の次の成長につながる課題設定をするかがポイントだね」という話をしました。

そのときに、ふと思ったのです。「あ、これがセンスだ」と。部門長の方に求めているのは、「個別のスキル」ではなく「全体を捉えるというセンス」だなと。しかも、それは磨くことができるという前提で自分は話をしているし、部門長の方もやればできそうだと思っているなと。

その面談の後に「センスとは何か?」についての仮説が言語化されました。




センスとは、普通の人には見えていない全体感が掴めているということ

(落合の仮説)



普通の人には見えていないから、「先天的なもの」とか、「身につけることは難しい」という見え方になるのだろう。しかし、センスは全体感が掴めているだけという話なので、誰でも磨くことはできるものだろう。ただし、論理的・手続き的なプロセスで習得できるものではない、という難しさがあるだけなのだろう。これが、センスに関する私の現時点の仮説です。

この仮説の是非はさておき、主体的真理に関わるテーマのアンテナが立つことによって、多くの情報を認知することができ、そこから問いが生まれて、アイディアの種を見つけやすくなるという一つの例としてご紹介しました。

主体的真理


人から異質なアイディアを得られる

3つ目の要因としては、人とのつながりを通じて、異質なアイディアを得やすくなるということです。主体的真理に生きると、共感ベースの人的ネットワークが広がりやすくなるという話をしました。そして、共感ベースの人的ネットワークにいる人たちと対話をすると、自分では考えつくことができない異質なアイディアを得ることができます。

ここでいう異質なアイディアとは、もう少し正確に表現すれば、(主体的真理に関わる)同じテーマに関する異質なアイディア、を指します。

この「(大枠でいえば)同じテーマ」ということと「異質なアイディア」ということの両立がポイントで、「同じテーマの同じようなアイディア」では新しいアイディアは生まれにくいですし、「全く分野が異なる異質なアイディア」というものは刺激にはなりますが、1つの問いや1つのコンセプトとして結合しにくくなります。

主体的真理に生きることによって、得られる共感ベースの人的ネットワークは、この「(大枠でいえば)同じテーマ」ということと「異質なアイディア」という2つが両立した貴重な情報を提供してくれるのです

このように、①常識や既存の枠組みにとらわれにくく、②普段の生活においてアンテナにひっかかってくる情報の量が多く、③共感ベースの人的ネットワークから「同じテーマの異質なアイディア」を得ることができる、ということから、主体的真理に生きると創造性を発揮しやすくなるのです。


主体的真理に生きると、フロー状態を経験しやすい

あなたが、我を忘れるような経験、時間感覚が通常と異なるような感覚を味わう時があるとすると、それはどのような瞬間でしょうか?


私自身は、良質な問いに巡り会い、その思索に没頭しているときと、大好きなテニスをやっているときに、自分の調子も良く、相手との実力も均衡していているときに、我を忘れて、時間感覚が通常と違うような感覚をもつことがあります。意識的に再現できるわけではないのですが、このような場面で自然とそのような感覚を得ることが多いという印象です。

このように、ある活動に没頭して我を忘れてしまうようなことを、フロー状態と呼びます。


フロー状態の定義

ある活動に没頭しており、他の何事も気にかけることがない状態であり、その活動をしていたくて仕方がないので、たとえ大きな犠牲を払ったとしてもやり続けたいと思うような楽しい経験のこと

(Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience )

フロー状態



フロー状態にあるときの主観的感覚の特徴

  • 今この瞬間にしていることに集中している
  • 行動と意識が融合して、一体となっている
  • 内省的な自己意識の喪失(社会的役割を担う感覚の喪失)
  • 自分の行動をコントロールできるという感覚、つまり、次に何が起きても、どのように対応すればよいかを知っているので、基本的に状況に対処できるという感覚
  • 時間的経験の歪み(一般的には、通常よりも早く時間が経過しているという感覚)
  • その活動が本質的にやりがいのあることと感じており、最終的なゴールがプロセスの口実になっていることが多い

(Nakamura, J. & Csikszentmihalyi, M. (2002). The Concept of Flow )


このような感覚をもつことができた経験にはどのようなものがありますか?と問われれば、いくつかの鮮明な記憶と感情と共に、その瞬間を思い起こすことができる人が多いのではないでしょうか。

フロー状態の感覚は、それ自体で楽しく、幸福感・充実感を伴うものです。まさに生きている感覚がする1つの事象と言えるのではないかと思います。


なぜ、フローの話をしているかと言えば、主体的真理に生きるほど、フロー状態を経験しやすいと考えるからです。3+1意識モデルで考えると、フローは直感意識にある主体的真理と、身体意識の快感情が直接的に結びついている状態であると言えます。

フロー状態


主体的真理とつながっているので内なるエネルギーが湧いてきます。そして、それが快感情につながっているので、楽しさや幸福感と共に、継続することが促されます。そして、そこに思考意識の介在がほとんどありません。

通常は、思考意識による認知・判断のプロセスを踏まえることによって、直感意識と身体意識の調整弁となったり、外界と内界の調和を図ります。

しかし、フロー状態においては、このような思考意識による調整が不要な状態であり、直感意識と身体意識のみが活性化していて、それでも尚、意識間の不整合がおきず、外界と内界の不整合もおきていないということがが起きます。

フロー状態の特徴にある、行動と意識の融合や、時間感覚の喪失というのは、思考意識の介在がほとんどないことを象徴しています。(ちなみに、時間感覚は、思考意識によるものと私は考えています。この話は、また別の機会に)

ここで強調したいのは、主体的真理につながっていることがフロー状態を創るエネルギーの源泉になるということです。「やるべきこと」「できたら評価されること」という思考で作り上げたものに没頭しようとしても、フロー状態に近づくことは難しいと言えます。そこには、内なるエネルギーが湧かないからです。

このように、主体的真理に生きることで、フロー状態という人生の至高の経験の1つを持ちやすくなります。主体的真理に生きるということの究極の形は、フロー状態が定常的に続くことであるというのは、少し言い過ぎかもしれませんが、私はそのようなイメージを持っています。

落合文四郎
落合文四郎
アルー株式会社代表取締役社長

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