
主体的真理を見つけるには~過去の振り返りと意識の重心
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主体的真理シリーズもいよいよ大詰めです。主体的真理を捉えるためには、どうすればいいのかについてお話ししたいと思います。
前提として、主体的真理は、言葉で全てを表現できるものではなく、イメージ的なものであり、エネルギーの塊のようなものですから、綺麗に言語化するための方法論ではなく、主体的真理とのつながりを感じることができるための方法として捉えていただければと思います。
主体的真理を捉えるアプローチとして、大きく2つあります。
1つは、これまでの経験や現在の活動から、自分が変わらずに大切にしていることの源泉を辿っていく方法。
もう1つは、自分の意識の重心を直感的・抽象的に捉えて、その妥当性を検証する方法です。この記事では、両方のアプローチについて話します。
原体験から主体的真理を捉える
まずは、1つ目のやり方です。
主体的真理は、内なるエネルギーの源泉ですから、これまでの経験において、そのエネルギーが具現化したものが現れている可能性が高いです。これまでの経験を振り返り、それらの経験が主体的真理の体現だったのではないかと捉えてみることによって、主体的真理を捉えてみようとするアプローチです。
これまでの経験において、次のような要素をもつものをなるべくたくさん洗い出してみましょう。全ての要素が当てはまる経験ではなくてもよく、どれか1つの要素でも当てはまれば良いというくらいの気楽なイメージで、たくさん洗い出してみることをお勧めします。
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なぜ、この5つが経験を抽出する基準になるのかについて簡単にご説明します。
まず、主体的真理は内なるエネルギーの源泉ですから、①の内容は主体的真理そのものの性質であると言えますし、②については、内なるエネルギーが湧くからこそ、比較的長期間、周囲に何も言われなかったとしても前向き、主体的に取り組めるということになります。
③については、主体的真理につながっているときの感覚で、覚醒度の高い短期の快感情というよりも、覚醒度が低めの安定した快感情という意味で、充実感という言葉を使っています。
④の没頭感については、(主体的真理が属する)直感意識につながっているときに現れるもので、思考意識を介することなく、あるいは、無意識に思考意識を介して、直感意識と身体意識がつながっている状態と捉えることができます。⑤についても、直感意識につながっているときに、起こりやすい現象でです。
どのような経験を思い出すでしょうか?私の場合は、次のような経験がリストアップされました。
▼テニス
▼物理・数学
▼集団・チーム活動
▼教育ビジネスの起業
▼海外旅行・海外出張
▼学習
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経験の背景にある願いを捉える
これらの原体験は、具体的な経験ですから、主体的真理につながったものであったとしても、主体的真理そのものではありません。主体的真理を捉えるためには、これらの原体験それぞれの背景にある願いを捉える必要があります。
A. その経験において、内なるエネルギーの源泉には、どのような願いがあるか?
B. その経験において、どのような感覚を繰り返し得たかったか? C. 似たような経験をしたとしても、何がなければ、内なるエネルギー・充実感・没頭感がなくなってしまうか? |
それぞれの経験について、上記の問いのうち、ピンとくるものを選んで、願いを捉えていきます。
なぜ、この3つが願いを捉える問いになるのかについて簡単にご説明します。Aは、主体的真理の定義そのものですので、この問いに答えることができると、主体的真理あるいはそれが一段具体化された願いを捉えることができるかもしれません。
Bについては、主体的真理につながっているときの感覚を直感的・感覚的に捉えるイメージです。主体的真理や願いそのものを捉える問いではありませんが、直感的・感覚的に捉えることで、思考意識を介さずに感じることができやすくなります。
Cについては、いろいろなシミュレーションをしてみると、一番大切にしている要素を見つけやすくなる、面白い問いだと思います。これは、少しわかりにくいかもしれないので、私のテニスの例で具体的にご説明します。
▼仮に、テニスが卓球だったら?(テニスという要素がなかったら)
・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。ただし、卓球をずっとやっていたとしたら、卓球でも良かったかもしれない。 ▼仮に、スポーツではなく将棋や囲碁だったら?(スポーツという要素がなかったら) ・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。仮に、将棋や囲碁をずっとやっていたとしても、スポーツという身体感覚を使う要素は欠かせない気がする。 ▼仮に、勝負ごとの要素がなくなったら?
・・・練習をしているだけでも、没頭感・充実感はある。 ▼仮に、社交場としてのテニスだったら? ・・・没頭感・充実感はあまりなさそう。テニスそのものに没頭したい。 ▼仮に、テニススクールのみで教わるテニスだったら?
・・・充実感はあるかもしれないが、没頭感はなさそう。 ▼仮に、相手が自分の実力とかけ離れていたら?
・・・楽しくはあるが、没頭感はなさそう。 |
このように考えると、「スポーツを同じくらいの実力の相手と、練習だけでもよいので、没頭してやりたい」というのが願いであることがわかります。この中でも同じくらいの実力の相手というのは、没頭するための条件ですので、要は「スポーツを没頭してやりたい」ということになります。スポーツというのは具体的表現ですが、その本質としては「身体感覚を伴った没入感」を求めているというイメージです。
このような形で一つひとつの経験について、願いを捉えていきます。私の場合は、次のようになりました。(自分で書きながら、自分の願いが少しずつ言語化されていくイメージがあります!)
▼テニス
・・・身体感覚を伴った没入感 ▼物理・数学 ・・・1つの法則で多くのものを説明できる美しさを見たい・感じたい ▼集団・チーム活動
・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい、見ていたい ▼教育ビジネスの起業
・・・本質を探求して、それが社会の基盤になる姿を実現したい、見てみたい ・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい ▼海外旅行・海外出張
・・・成長感を感じたい ・・・まだ見ぬ世界に触れてみたい、感じたい ▼学習
・・・成長感を感じたい ・・・新しい世界、新しい感覚に触れてみたい、感じたい |
その願いは外部から強制されたものか
このように願いを捉えていくと、いろいろな願いが自分の中にあることがわかります。次にやると良いことは、条件付けされたものを仕分けるということです。
ここでいう条件付けというのは、周囲や外部から、その行動をとることが好ましいこととして条件付けされていることを指します。私たちは、生まれてから親や学校や近所の方から、いろいろな形で条件付けの影響を受けています。
例えば、勉強すると褒められる、あるいは、勉強していい成績を修めると褒められる、という具合で、褒められるという外部からの刺激によって、勉強するという自分の行動が強化されています。このような条件付けは、悪いことではありません。親からの教育や、学校における教育は、条件付けの要素がゼロにはならないでしょう。
条件付けによって、社会適応するための考え方や行動を習得することができます。主体的真理に生きることと、周囲や社会に適応して生きることは両方とも大切なことですから、条件付けは悪いことではありません。
しかし、主体的真理となると話は別です。主体的真理は、その人にとっての真理ですから、外部や周囲からの条件付けとは本質的には異なるものです。ですから、主体的真理と捉えようとするときに、外部や周囲から条件づけされているものをなるべく仕分けるようにする必要があります。
条件付けされたものか、そうではないかを仕分けるために、有効な観点があります。
仮に、それをやらない、意識しないとしたときに、恐れや不安という感情が湧いてくるかどうか?
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なぜ、この問いが条件付けされたものを仕分けるのに有効かと言えば、これまでの人生における繰り返しの刺激によって、「それをやること、意識することが良いことだ。逆に言えば、それをやらない、意識しないことは良くないことだ」という具合に、「良いこと、良くないこと」の価値観が形成されているからです。
それをやらない、意識しない
↓ ↓←「それをやらないことは、良くないこと」という価値観 ↓ 良くないことという認識 ↓ 不安・恐怖 |
繰り返しになりますが、条件付けがあるからといって、悪いことではありません。むしろ、周囲や社会と調和して生きていくために必要な要素だったからこそ、条件付けとして今も残っているということができますし、いま健全に生活ができているとすれば、それは条件付けされていることのお陰と言っても過言ではないでしょう。
また、条件付けされているかどうかについて、0か100かという白黒はっきりした話ではありません。条件付けの要素が比較的多いか、比較的少ないかと捉えた方が適切かと思います。条件付けの要素が全くないものを見つけようとするよりも、条件付けが比較的少ないものの中で、自分にとって内なるエネルギーが湧いてくるものを探求していく姿勢が良いように思います。
さて、私の例のおいて、条件付けされた要素は「成長感を感じたい」という要素でした。私は、親から「勉強しなさい」と言われたことは殆どないように記憶していますが、幼少期から父や兄の姿を見て、学問の道に自然と向くようになりましたし、勉強をしたら褒められる、成長すると周囲の人から一目置かれるという感覚は、持っていたように思います。
そして、今も成長感をもつことによって、周囲の人から一目置かれるかもしれないという要素は、ゼロとは言い切れません。逆に、成長感を持てないことに対して、「そのままで経営者としてやっていけるのだろうか」というような不安もあります。
このように考えると、私にとって「成長感をもちたい」ということは、条件付けが比較的強いものであると言うことができます。それは、私の主体的真理からくるという部分が0ではないかもしれませんが、どちらかといえば、条件付けによって外部適応するために身につけてきた感覚なのだと捉えています。
3つの軸で自分の意識の重心を捉える
ここからは、2つ目のやり方についてご紹介します。
結論から言えば、3つの軸から自分の意識の重心を捉えてみることをお勧めします。これは、何かの理論に基づくというよりも筆者による仮説というレベルであることを先にお伝えさせていただきます。あくまでも主体的真理を捉えることが目的ですので、そのための示唆を与えるアプローチの1つだと考えていただければと思います。
まず、このように3つの軸で構成される8つの領域(立方体のそれぞれの頂点)に分けることによって、何がいいのかという話をします。このようなアプローチの前提として、人にはそれぞれ意識の重心みたいなものがあると考えています。そしてその意識の重心に、主体的真理が表現されている可能性が高いという前提も持っています。
ですから、この3つの軸のそれぞれにおいて、自分の意識の重心がどちらになるかを捉えることによって、自分の主体的真理の居場所を大枠で捉えていこうというのがこのアプローチになります。
次にそれぞれの軸について説明をします。
集合性・・・メタ的・集合的・全体的なものを起点として捉える世界観
個性性・・・一人ひとりの自我や個性を起点として捉える世界観
相対性・・・価値観や基準は一人ひとりが決めるという世界観
絶対性・・・価値観や基準を決める、普遍的なものがあるという世界観
革新性・・・これまでの慣習にとらわれず、いいものはどんどん変えていくべきという世界観
保守性・・・これまで培っていたことを大切にして、維持していくことが大切という世界観
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さて、皆さんはそれぞれの軸において、どちらに意識の重心があるでしょうか?ここで、「重心」という表現をしているのには理由があります。上記のどの軸についても、場面によって違うなということを感じられた人も多いのではないでしょうか。これはその通りで、それぞれの軸について、片方の世界観しかもたないという話ではなく、状況によって使い分けているのが普通です。
ただし、どちらの方の世界観をより多く持っているか、より多く適用しているかについては個人差があり、それを「重心」と表現しています。
主体的真理によって、意識の重心の置きどころが変わる
3つの軸それぞれにおける意識の重心の置きどころの違いによって、主体的真理の質感がどのように変わるかをまとめたものが以下の図です。
3つの軸それぞれが当てはまるコンセプトと、大切にすること・エネルギーが湧くことを読んでいただいて、しっくりくるかどうかを確かめてみてください。あるいは、この表を見ながら、どれが一番自分にフィットするかを考えていただいても大丈夫です。
このときに、どれか1つに絞らなければいけないと考える必要はありません。この8つのうちの複数にまたがるような意識の重心がある場合もありますから、しっくりくる組み合わせを選んでいただいても大丈夫です。
ちなみに、私自身は、集合性・絶対性・保守性に意識の重心があります。そのコンセプトは、「原理原則」であり、「大いなるものとのつながり、組織化・永続化、原理原則(普遍性)の探求」を大切にしており、エネルギーが湧きます。
これは、私の主体的真理が「本質探求による大いなるものとの一致感」と表現していることと合致します。
ここまで読まれた方の中で、「主体的真理は一人ひとり違って、千差万別なのだから、このようなカテゴリー分けは無意味なのではないか」と思った方もいらっしゃるかもしれません。それは、仰る通りで、主体的真理は一人ひとり違いますから、このような大雑把なカテゴリー分けですぐに見つかる類のものではありません。
それでも、一人ひとり違う主体的真理を何の手がかりもなく探していくよりも、大雑把な分類ではあるものの、最初の仮説作りとしてこのようなカテゴリ分けを用いることも有益ではないかと私が思っているのは、恐らく、私の意識の重心が相対性ー絶対性の軸において、絶対性にあるからなのでしょう。
相対性に意識の重心がある方にとっては、違和感があるアプローチかもしれませんので、その場合は、これまでの経験や現在の活動から、自分が変わらずに大切にしていることの源泉を辿っていく方法を試していただければと思います。
意識の重心から見えてきた初期仮説をもとに、自身の主体的真理を紡ぎ出す
先ほども述べたように、この8つのカテゴリー分けは、主体的真理をとらえていく初期的な仮説に過ぎません。自分がしっくりくる意識の重心が見つかったとしても、そこで満足せずに、それを初期仮説としてさらに自分の主体的真理をぴったり表現できるような言葉やイメージを探求していっていただきたいと思います。
どのように探求をすればいいのかについては、上記でご紹介した、これまでの経験や現在の活動から、自分が変わらずに大切にしていることの源泉を辿っていく方法を併せて用いていただくことをお勧めします。
私の場合で言えば、これまでの経験や現在の活動から辿った自分の願いは以下のようなものでした。
▼テニス ・・・身体感覚を伴った没入感 ▼物理・数学 ・・・1つの法則で多くのものを説明できる美しさを見たい・感じたい ▼集団・チーム活動 ・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい、見ていたい ▼教育ビジネスの起業 ・・・本質を探求して、それが社会の基盤になる姿を実現したい、見てみたい ・・・1人ではできない、集団やチームの力が発揮される瞬間を感じたい ▼海外旅行・海外出張 ・・・成長感を感じたい(ただし、これは条件付けの要素が多い) ・・・まだ見ぬ世界に触れてみたい、感じたい ▼学習 ・・・成長感を感じたい(ただし、これは条件付けの要素が多い) ・・・新しい世界、新しい感覚に触れてみたい、感じたい |
一方で、ここで説明したように、意識の重心から直感的・抽象的に捉えたコンセプトは、次のようなものでした。
コンセプト「原理原則」 大切にしていること・エネルギーが湧いてくること
キーワード・・・原理、原則、普遍、不変、永続、真 |
この2つのアプローチを統合的に捉えていき、私自身の直感や感性にフィット感を問いながら言語化してみると次のようになります。
【私自身の主体的真理(を最大限純度高く表現したもの)】 本質追求による大いなるものとの一致感 【付随的な願い】
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なぜ、この3つの軸なのか?
ここまでの内容で、2つ目のやり方のエッセンスは全てとなります。ここからは、もう少し詳細に、この3つの軸で構造化される理由や背景はどのようなものかについてご関心のある方は、もう少々お付き合いいただければと思います。
この3つの軸によって、主体的真理につながる意識の重心の所在をカテゴリ化できるというのは、実証された理論ではなく、私の仮説になります。ただ、その仮説にたどり着いた経緯がありますので、それをご紹介させていただければと思います。
私がどのようにこの仮説に辿り着いたかと言えば、政治的立場をカテゴリーわけするときの考え方をアナロジーとして用いています。米国で言えば、民主党と共和党という二大政党がありますが、その政治的立場は明確に異なります。その立場の違いを表す軸の取り方が3種類あります。
▼リスクの社会化・リスクの個人化 ・・・生活をしていく上でのリスクを社会全体で受けるか、あるいは、個人が受けるか ▼リベラル(自由主義)・パターナル(権威主義) ・・・”いい”を決めるのは一人ひとりか、あるいは、”いい”は誰かが決めるのか ▼革新と保守 ・・・(新しい)いいものはすぐにでも取り入れるべきか、あるいは、これまで大切にしてきたものを大切にして、拙速に取り入れるべきではないか |
例えば、米国の二大政党は下記のように位置付けることができます。
民主党であればオバマ大統領、共和党であればブッシュ大統領やトランプ大統領を思い浮かべていただけると、上記の位置付けのイメージが腑に落ちやすいのではないでしょうか。
さて、これらは政治的立場の位置付けであって、主体的真理につながる意識の重心の話とは違うのではないかと思われた方もいるかもしれません。そもそも政治というのは何かと考えた時に、西田幾多郎の「善の研究」に載っている次の言葉を見て、ピンときたのです。
国家の本体は、我々の精神の根底である共同体意識の発現である
(西田幾多郎、善の研究)
西田幾多郎は、国家は集合意識が発現したものだと言っています。そうすると、政治的立場というのは、「政治政党がその立場をとっている」ということ以上に「そのような集合意識がある」ということ、さらにいえば、「その立場を大切にしている人が多くいる」ということになります。
我々の集合意識の発現である政治立場というものが、3つの軸によってカテゴリ化できるのであれば、我々個人の意識についても、本質的にはこの3つの軸によってカテゴリ化できるのではないかと着想しました。
リスクの社会化とリスクの個人化という軸は、個人の文脈では何を意味しているかわかりませんので、抽象化すると集合性と個性性という軸と捉えることができるだろう。リベラル・パターナルという軸も、個人の文脈では意味がわかりにくいので、相対性と絶対性として捉えることができるだろうと考えたのです。
このような着想とアナロジーから、意識の重心を3つの軸でカテゴリ化できるのではないかと考えたわけですが、これが理論的に正しいと言えるのかどうかはわかりません。(関係のありそうな理論などありましたら、是非とも教えていただければ有難いです。)ただ、主体的真理を捉えていく上では、1つのアプローチにはなるだろうと思っています。