
精神的に成熟すると主体的真理は変わるのか
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今回の記事では、精神的成熟段階による主体的真理の質感の違いについて話します。
なぜ、このようなテーマを取り上げたいのかについてその背景を共有させてください。これまでの主体的真理に関する記事をお読みいただいた方は、主体的真理とは何かについて、解像度高くご理解いただいていると思います。主体的真理について、我々の共通の問いと言ってもいいものは、「どうすれば主体的真理を見つけることができるのか?」ということになります。
主体的真理を見つけるなら内なるエネルギーの湧出を最も大切にする
主体的真理について最も大切なことは、自分の内なるエネルギーが湧いてくるかどうかの1点にあります。とてもシンプルに表現するならば、自分の内なるエネルギーが湧いてくるものは、全て主体的真理につながっている可能性があるということです。
自分の内なるエネルギーが湧いてくるというのはどういうことでしょうか。もう少し具体的に、内なるエネルギーが湧いている状態を表現したいと思います。
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繰り返しになりますが、主体的真理(や、その表出である願い)に大小・善悪・貴賎はありません。内なるエネルギーが湧いてくるものであれば、それが一般的にあまり大切にされていないことであっても、私たち自身は大切にすると良いです。最も大切なことは、一般的にみてどうかということではなく、自分の内なるエネルギーが湧いてくるかどうかの1点にあります。
精神的成熟段階による主体的真理の質感の違い
主体的真理において内なるエネルギーが湧いてくることが大切であることがわかったとすれば、その次はより具体的にどのように捉えていけばいいのかという話になります。
その話をするにあたり、主体的真理が、精神的成熟段階によって、質感が異なることを理解しておくことが有用です。より正確に表現するならば、主体的真理が願いとして表出してくる仕方、ならびに、自分たちが認知する仕方は、精神的成熟の段階によって質感が異なってくるということです。
何かを見つけにいく時に、みなさんはどんな準備をするでしょうか?見つけにいくものは、どんなもので、どんな種類があるのかを理解したくなるのではないでしょうか。例えば、キノコ狩りにいくときは、獲りたいキノコの種類の違いを理解しておきたくなりますね。
まず、精神的成熟段階について確認をいたしましょう。次の図は、成人発達理論における意識の成長段階を説明したものです。
①利己的段階
沸き上がる衝動や欲望が自分自身という世界観。欲望をストレートに表現することで周囲を動かそうとする。 例えば、お菓子がほしいときに泣くことでそれを叶えようとする。 |
②環境順応型知性
周囲との関係性や周囲への成果で自分を定義する世界観。周囲から期待されている自分と、自分自身(エゴ)の両立を図る。 例えば、親の期待に応えることによって(例:習い事をちゃんとやる)、お菓子をもらえるように振舞う。 |
③自己主導型知性
自分自身を超えた「本当に大切なもの」に従って行動する世界観。自分の信じる理想に従って、現実を変えていくことで両立を図る。 例えば、誰かから具体的に期待されていないとしても、組織のビジョン実現に向けて、周囲の人を巻き込み行動していく。 |
④自己変容型知性
自分の掲げる理想すら一定のものではなく、変化する器が自分自身という世界観。世界と自分の境界が薄くなる、自分は「無」である、とも言い換えられる。これから起ころうとする未来を感じ取り、現実との両立を図る。 |
以上が、成人発達理論で考える4つの意識段階です。これを読むと、この段階の違いによって、主体的真理として捉えるものの質感が違ってくることが予感できるのではないでしょうか。
ここで、改めて強調させていただきたい点は、主体的真理に大小・善悪・貴賎はないということです。あるのは、本来の自己とのつながりがあるかどうかだけです。エネルギーが自然と湧いてくるかどうか、誰が何といっても自分はこうしたいと思える何かかどうかということのみが大切です。
ですから、精神的成熟の段階による主体的真理の質感の違いがあるからといって、それがいい・悪いという話ではありません。キノコ狩りのメタファーでいえば、キノコの種類を理解しておいたほうがいいけれども、どのキノコが優れているという話ではなく、キノコの種類が違うだけであるということです。
こちらが、精神的成熟段階における主体的真理・願いの質感の違いをまとめたものです。精神的成熟段階の環境順応型知性から自己変容型知性までをまとめており、環境順応型知性については二段階に分けています。利己的段階については、ここでは割愛しています。
また、『主体的真理と意識構造』でお話しした通り、主体的真理は、個人の目的レベル(Whyレベルのもの)が統覚されたものであり、1つの側面や1つの言葉で表現し尽くせるものではありません。それは、いろいろな顔をして自分にやってきます。
したがって、日常的に私たちが内なるエネルギーが湧くこととして認識することは、主体的真理そのものというよりも、主体的真理がその顔をして表出してきたもののうちの1つとして捉えるのが妥当です。
言葉を使い分けるために、「主体的真理」という言葉を、自分の中の目的レベルのものが統覚された1つのものとして用い、それがいろいろな顔をして表出したものを「願い」と呼んでいます。
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環境順応型知性(自立<依存)の願い
この段階の願いは、個人の評価や、個人に対する周囲からの賞賛に類するものになります。評価というのは、人事考課などのいわゆる評価だけではなく、外部で何らか設定された基準に対して自分が満たしたかどうかということに関する全てのものが当てはまります。
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これらが、環境順応型知性(自立<依存)の願いの具体例です。内容はそれぞれ違いますが、外部で何らか設定された基準を満たすことに軸足が置かれています。
このように外部の基準を満たすことに自分の内側のエネルギーが湧いてくるならば、それを大切にしたほうが良いです。主体的真理(と、その表出である願い)に大小・善悪・貴賎はありません。内側のエネルギーが湧いてくるならば、それが自分の願いかもしれませんので、それを大切にして、満たしていくことをお勧めします。
この段階の願いについて、注意するべきことが2つあります。
1つ目は、「外部の基準に対する無意識の順応」ではないことです。無意識の順応というのは、それが自分ではなく外部が設定した基準であって、それに従うかどうかは自分が決めることができるにも関わらず、無意識に「従うべきもの」として順応しようとしてしまうことを指します。
2つ目は、「恐れや不安からの回避」ではないことです。外部の基準から外れてしまうことの恐れや不安から、エネルギーを出して頑張っているという状態は、主体的真理とは言えません。上司から評価されないという不安から頑張っている状態、昇進できないと周囲から何かを言われるという恐れで頑張っている状態は、願いとは言えません。
1つ目でも、2つ目でもなく、外部で設定された基準を満たすことに自分の内側のエネルギーが湧くのであれば、それは自分の願いである可能性が高いです。そして、この段階の願いが自分の中にあるならば、それは最優先で大切にした方が良いものになります。(なぜ最優先なのかは、後述します)
環境順応型知性(自立>依存)の願い
この段階の願いは、個人のありたい姿、目指したい姿、野心、キャリア像という類のものになります。ヴィジョンやありたい姿など、いろいろな表現があり得ますが、個人の目的レベル(Whyレベル)のものであり、その影響範囲が本人(と直接的に関係する人)になっているもの全てとなります。
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これらが、環境順応型知性(自立>依存)の願いの具体例です。内容はそれぞれ違いますが、個人の目的レベルのものであり、その影響範囲は本人と直接的に関係する人になっています。
これらは、個人の願いであるから「利己的段階」ともみなせるのではないかと思った方もいるかもしれません。もし、それぞれの願いが、「この願いを衝動的に優先するがあまり、周囲との関係性を損ねてしまったり、物事がうまく進まなくなったりする」というレベルであれば、それは利己的段階となるでしょう。
例えば「自分の知的好奇心を満たす研究をやり続けたい」というときに、周囲の人との関係性が一定レベルで円滑であり、自分の生活も十分になりたっており、職場での仕事ぶりとしても成り立っているのであれば、それは環境順応型知性(自立>依存)の願いの可能性が高いです。
一方で、「研究に没頭しようとするがあまり、職場の仕事がうまくまわっていない、人間関係がうまくいっていない、生活がなりたっていない」ということがあれば、利己的段階と考えた方がいいかもしれません。
自己主導型知性の願い
この段階の願いは、コミュニティの目的、成長、進化に類するものになります。ここでいうコミュニティとは、共通の目的や利害を自覚的にもっている人の集まりのことを指します。例えば、仕事の文脈でいえば、会社であり、部署であり、プロジェクトチームが該当します。仕事以外の文脈でいえば、共通の趣味をもつ集まりや、地域活動の集まりなどが該当します。
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この段階の願いの特徴は、目的レベル(Whyレベル)のものであり、その影響範囲が自分に閉じずにコミュニティに開かれている点です。その影響範囲に自分が含まれていることは環境順応型知性の場合と同じですが、それが自分だけに閉じていないことがポイントになります。
これらの内容を見ると、環境順応型知性(自立<依存)の内容と近いのではないかと感じられた方もいるかもしれません。例えば、自分から働きかけて周囲の人々に貢献するというのは、その行動だけを見ると、周囲の人に認められるために貢献することと、似ているかもしれません。
しかし、エネルギーが湧きでるポイントが、自己主導型においては周囲に貢献することそのものにあるのに対して、環境順応型においては周囲の人に認められることにあります。別の言い方をすれば、周囲の人から認められなかったとしても、自己主導型の場合はエネルギーを失うことはありませんが、環境順応型の場合はエネルギーを失ってしまうかもしれません。
このように自己主導型の願いは、影響範囲が自分以外のコミュニティに広がっていながらも、内面からのエネルギーの源泉は、自分がしていることそのものにありますので、周囲に影響を与えながらも、周囲からの影響を受けにくいという特徴があります。
自己変容型知性の願い
この段階の願いは、エコシステム全体の共通善に類するものになります。エコシステムというのは、生物が集団として生き、他の生物や環境と相互作用する在り方の全体のことを指します。そこから転じて、会社や組織が集団として活動をして、他の会社・組織や環境と相互作用する在り方の全体のことを指します。
自己主導型知性においては、コミュニティの目的をテーマとしていますが、自己変容型知性においては、エコシステムの共通善に関わるものになります。コミュニティは共通の目的がある集まりですが、エコシステムには共通の目的があるわけではないので、目的という表現ではなく共通善という表現を用いています。
コミュニティとエコシステムの違いについて、少しわかりにくいかもしれませんので、その違いをまとめておきます。
ビジネスの世界観でいえば、会社はコミュニティですが、顧客や競合やサプライチェーンを含めた業界全体はエコシステムです。業界のプレイヤーで構成されている業界団体は、個々の目的は違うものの、全体としては共通の目的を有しているという点において、コミュニティ性とエコシステム性の両方を持っているというイメージでしょうか。
この段階の願いの特徴としては、影響範囲がコミュニティだけに閉じずに、エコシステムに対して開かれているという点です。
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自己変容段階知性の願いを言葉で表現するのは難しい面があります。それは一面では捉えきれない願いであり、言葉で表現するのはその一面のみを切り取ることになってしまうからです。敢えて言えば、純粋かつ真摯にエコシステムの共通善に向き合っています。共通善と向き合っているという感覚よりも、自分とエコシステムが一体化した感覚という方が適切かもしれません。
全ての願いを大切にする
ここまで、精神的成熟の段階による主体的真理(とその表出である願い)の質感の違いについて説明をしました。このように説明をすると、自己変容型知性の願いが一番良くて、環境順応型知性の願いは良くないものという印象を持ってしまいがちですが、全くそうではありません。
繰り返しになりますが、主体的真理(や、その表出である願い)に大小・善悪・貴賎はありません。最も大切なことは、自分の内なるエネルギーが湧いてくるかどうかの1点にあります。
そして、ひとりの人の中にも、願いは複数あります。将来のキャリア像に関する願いもあれば、家族に関する願いもあれば、お給料や評価についての願いもあれば、衣食住に関する願いもあるというのが、普通の感覚ではないでしょうか。
そして、これらの願いは、この記事で説明をしたどれかの段階のみにあるというよりは、Aという願いは自己主導型であり、Bという願いは環境順応型であるという具合に、複数の段階にまたがっていることも多いでしょう。
これらの願いのどれが良いとか悪いということではなく、全てを大切にしたいものであるということを改めて強調させていただきたいと思います。
まずはより利己的な願いを満たすことを優先する
内なるエネルギーが湧く願いは全て大切にしたほうがいいという前提を持っていますが、より多くのエネルギーを感じるためには、すなわち主体的真理の純度を高めるためには、願いに優先順位をつけて満たしていくことをお勧めしたいと思います。
精神的成熟の段階について、上記でご説明しましたが、環境順応型(自立<依存)、環境順応型(自立>依存)、自己主導型、自己変容型の順番で考えた時に、前にあるものを前段階、後ろにあるものを後段階と呼ぶことにします。
自分の中に複数の願いがあったときには、前段階の願いを優先的に叶えていくことをお勧めします。もう少し具体的に言えば、利己的段階、環境順応型(自立<依存)、環境順応型(自立>依存)、自己主導型、自己変容型の順番で優先的に願いを満たしていくことをお勧めします。
このようにお伝えすると、疑問に思われる方もいらっしゃると思います。自己主導型や自己変容型の願いの方が、自分だけではなく周囲にいい影響を与えるから、より優先するべきではないか、という疑問です。野心と志という対比で以前もお話をしたとおり、影響範囲が自分に留まらずに、周囲に開かれている方が、共感を得やすいという面がありますので、この疑問には一理あります。
それでも、利己的段階、環境順応型の願いを優先的に捉えていくことをお勧めしたい理由が2つあります。
1つは、その願いが一番切実な願いであるという理由です。前段階の願いがある場合、後段階の願いよりも切実にその願いを感じます。ですからその願いを満たすためのエネルギーが湧いてきます。
2つ目の理由は、それらの願いを満たすことによって、その願いを完了させることができて、より後段階の願いに近づくことができ、自分の主体的真理からくる純度の高い内なるエネルギーに近づけるからです。精神的成熟の段階は、前の段階における願いを叶えきることによって、初めて次の段階に進むという側面があります。前の段階の願いを叶えずに、次の段階に移行しようとしても、実際のところ難しいという側面があります。
例えば、次のような願いを持っているAさんがいたとします。
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この中には、いろいろな精神的成熟段階の願いがあるように見えます。
内なるエネルギーが湧いてくるものである限り、どれも大切にした方がいいことは間違いありませんが、その中でも優先的に満たすと良いのは利己的段階、環境順応型に近いものになります。
この例のとおり、優先的に捉えると良いのは「まずは社内で一目置かれる存在になりたい」という願いです。これが、Aさんが一番切実に、日々のこととして意識したくなる願いである可能性が高いです。それ以外のものも、内なるエネルギーが湧くものではありますが、エネルギーが湧く度合が違ってくるというイメージです。水が湧いて小川ができるようなイメージか、堰を切ったように水が溢れてくるようなイメージの違いです。
この例において「社内で一目置かれる存在になりたい」という願いが叶ったときのことを想像してみてください。本人からすると、その願いは既に満たされているので、上記のような思いのリストには、その項目は入ってこなくなります。「社内で一目置かれる存在になる」ということには自然と意識が向かなくなってくるのです。
このように、前段階の願いを大切にすることがとても重要です。それをなかったことにしたり、認識していても大切にしなかったりすると、それが影となって後から尾を引いてしまうこともあります。
「やりたいこと」を見つけるために、「やるべきこと」から始めるのも1つの手
前段階の願いを大切にすることが重要という話をしましたが、これに関連して、もう一つ、主体的真理の純度を高めるための観点をお話します。
それは、「やるべきこと」と「やりたいこと」についてです。「やるべきこと」はたくさんあるけれども、「やりたいこと」が見つからないという人は少なくありません。あるいは、「やるべきこと」が山積みになっていて、「やりたいこと」に割く時間がないという話もよく聞きます。
ここでお話をしたいのは「やりたいこと」を見つけるために、「やるべきこと」から始めるというやり方も1つの手であるということです。
先ほどの精神的成熟段階による願いの質感の違いの話と紐づけてみると、「やりたいこと」は、自己主導型知性の願いの質感です。「やるべきこと」は、周囲から要請されることを満たすという観点から環境順応型知性の願いの質感になります。
やるべきことは、周囲から要請されていることなのだから、自分の願いとは関係がないのではないかという疑問が湧くかもしれません。おっしゃる通り、「やるべきこと」と「願い」というのは全く異なることのように思えます。しかし、やるべきことと自分が認知している時点で、それをやることは自分の願いでもあるのです。
例えば、気乗りのしない仕事の締め切りがあるとします。その締め切りまでに仕事を仕上げることは「やるべきこと」になります。しかし、見方を変えれば、「やるべきこと」をやることによって、周囲からの期待に応えるとか、評価されるという「願い」があることに気づきます。「やるべきこと」をやるという選択をしているのは自分です。そこには、(多くの場合、環境順応型の)願いがあるのです。
「やりたいこと」・・・自己主導型知性の願いの質感 「やるべきこと」・・・環境順応型知性の願いの質感 |
先ほど、前段階の願いを大切にするという話をしましたが、「やるべきこと」と「やりたいこと」という対比においては、「やるべきこと」を先に満たすことと同じであることがわかります。その願いが満たされた時に、それは意識の向かう先ではなくなり、次の段階に移行することができるという話にあるとおり、「やるべきこと」の先に「やりたいこと」が待っています。
先ほどのAさんの例でいえば、やりたいことは自社の人材育成の全体に携わることであり、やるべきことは一目置かれる存在になることです。
Aさんの例における「やりたいこと」と「やるべきこと」
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Aさんの場合は、「やりたいこと」と「やるべきこと」の両方が見えている中で、「やるべきこと」にまず取り組んでいくのが良いという話ですが、仮に「やりたいこと」が明確に見えていない状況であっても、同じことが言えます。「やるべきこと」にまずは全力で取り組んでみることが「やりたいこと」の発見につながります。
ちなみに、「やりたいこと」と「やるべきこと」という捉え方以外に、「自分とは関係がないもの」という捉え方があります。「やるべきこと」に全力に取り組むというときに、それは自分とは関係がないものではなく、「やるべきこと」であると自分が選択していることを確認することは有意義だと思います。
エゴを満たすことで、純度が高まっていく
私自身の内なるエネルギーの変遷についてお話をしましょう。私自身にも、いろいろなレベルの願いがあり、それが時間とともに移り変わってきています。その中で言えることは、利己的段階、環境順応型知性の段階の願いを叶えること、もっとシンプルに言えば、エゴ的な願いを満たすことによって、主体的真理の純度が高まっていくということです。
▼利己的段階の願い
▼環境順応型知性の願い
▼自己主導型知性の願い
▼自己変容型知性の願い
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社会人になってからの自分の願いを書き出して、それぞれの願いがどの段階にあたるかを整理をしたものです。このように書きだしてみると、いろいろなレベルの願いが自分の中にあったことをしみじみと振り返ります。みなさんも、是非とも一度やってみてください。いろいろな気づきがあることと思います。
2003年に起業した当初は、利己的段階と環境順応型知性の願いに意識の重心があったように思います。起業したときから教育を手がけていますので、自己主導型知性にある「教育という、人に選択肢を提供することをやっていきたい」ということも意識はしていましたが、まだお題目感というか、掲げてはいるものの重心がそこにあるわけではなかったというのが正直なところです。
起業してからしばらく経過して、利己的段階と環境順応型知性の願いについては、いくつか満たされたものがありました。また、2018年に上場したことも、この中のいくつかを満たすには十分な出来事でした。しかし、まだ完全に満たしたとは言い切れないものがあることも確かです。それらの願いをなかったことにするのではなく、むしろ優先順位を高めて向き合っていく必要があると思っています。
今の実感値としては、環境順応型の願いが未成就のまま残りながら、自己主導型の願いについても、自分の中のエネルギーの源泉になっている感じがしています。一方で、自己変容型の願いについては正直なところ、まだ心的な距離がある状況です。(主体的真理を最も純度高く表現したものとして掲げてはいますが、まだ距離があるというのが実情です)
利己的段階や環境順応型にあるようなエゴ的要素が強い願いについても、無視をするのではなく、そこに願いがあるのであれば満たしていく、ということが自分の経験を振り返っても大切なことだったと思います。そこを満たしていかないと、自己主導型や自己変容型の願いとのつながりが、少し希薄になってしまったり、お題目のようになってしまったりする感覚があります。
エゴ的要素について、積極的に満たしていくことで、主体的真理の純度が高まります。もちろん、何が何でもエゴ的要素を満たすというのではなく、周囲との調和(家族や仲間とうまくやる、仕事を一定レベルで成り立たせる、法律や道徳観を守るなど)を保ちながら、自分のエゴ的要素を満たしていくということです。